スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり(訳)岩波現代文庫)

学生だった頃、仲良しの友達に「9条っていいね」と言ったら、向き直って、彼は、「君はベトナム人民に武器を捨てろというのか」と問い返した。50年前のことだ。

今、本屋さんの入り口に『同志少女よ、敵を撃て』が山と積まれている。作家の逢坂冬馬さんが語ったのだが、彼がヒントを得たのが『戦争は女の顔をしていない』だったそうだ。著者のスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは2015年にノーベル文学賞を受賞していたが、私は今まで読まずにきたので、今こそ読もうと思って手に取った。

アレクシェーヴィッチは母の実家ウクライナで生まれ父の家ベラルーシで育った。国籍はベラルーシだ。ソビエト連邦は一つの国家で、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、タジク人、全てがソ連人だった時代があった。

独ソ戦はドイツとソ連の戦いで、1941年から1945年まで続いた。ソ連の犠牲者2000万から3000万人とある。1989年のソ連の人口は2億8670万人だから人口の1割が死亡した。

アレクシェーヴィッチは男のいない、男の声を聞いたことのない、女ばかりの村で育ったと書いていた。ソ連邦の西側は激戦地ばかりだ。人口の1割が死んだ戦争だ。東の方では死者は少ないなら、西の方はどんなに悲惨だったろう。

アレクシェーヴィッチは「その時」少女だった元兵士たちの声を聞き歩く旅に出た。「その時」とは1941年から1945年まで戦われた独ソ戦。読み始めるとすぐに湧いてくる一つの大きな疑問。どうしてこの少女たちは、こんなに一生懸命に徴兵司令部に通い詰めて前線で戦わせてくれと頼みにいったのか? 少女たちは大人から最初は相手にされないのに熱心に銃の撃ち方もあらかじめ教習所に通って戦闘能力を身につけてから徴兵司令部に通ったのだ。

読み進むうちに、私の中で彼女たちはベトナム戦争を戦った少女たちと重なってきた。

覚えていませんか? ベトナム戦争の激しかった頃(1965―75年)、赤旗のカレンダーにはベトナムの少女兵士の写真があった。軍服を着て機関銃を持っていた。可愛らしい少女が、前線で戦っている姿だった。ソ連の少女は「ファシストのドイツと戦った」戦場で初潮を見たとか、戦場で背が伸びたとか、言っている。つまり、本当に幼い10代半ばの少女たちだった。ベトナムでもソ連でも、この子たちを前線へと駆り立てたのは何だろう。

実は、日本国憲法を議論した1946年の帝国議会で「戦争の放棄」9条が議題になった時、日本共産党の野坂議員は、ファシストから祖国を防衛するために武器をとって戦う、この美しい思想のために、9条には断固として反対した。武器をとって戦うことはまさに人民のなすべき道だ。ベトナム人民は、侵略者アメリカと武器をとって戦っていた。独ソ戦を戦ったソ連の少女たちも侵略者ドイツと戦った。「祖国」を守る激しい情熱。さらにドイツ人への憎しみ。祖父や祖母、父や母、兄弟姉妹を殺されたことから生まれた憎しみ。

いま「伊藤千代子の青春」という映画が公開されている。帝国の戦争に反対したために逮捕され、拷問され、獄死した。日本共産党は侵略戦争に反対した。しかしベトナムの人民が侵略者と戦う戦争は支援した。私も支援した。人民には祖国防衛、抵抗の権利がある。だから冒頭で紹介した50年前の私の個人的な友人との会話への答えを、いつも私は探してきた。

そして私がいま確信する一つの答え。人々に武器を取らせて戦争をさせる思想は、もしかしたら忠君愛国の国家神道も、侵略者と戦う祖国防衛も、ファシストと戦う戦争も、いずれも、その戦争を人々に戦わせるための思想であって、権力者の性質の違いだけなのかもしれない。

昔、オーバビーさんとメールで文通していた頃のこと。彼は5月3日と11月3日の日本人へのメッセージの中で毎回「地球上のほとんどの人が無くなってほしいと願っている戦争」と書いていたので、私は、ある時、聞いた。「戦争が嫌なのは『ほとんどの人』ではなくて、『全ての人』がなくしたいと願っているでしょ?」これには何の返事もなかった。だから、自分で考えてみた。そうか。戦争をなくしたいと願わない人もいるのか。受け入れたくない現実だった。でも、それが真実だ。

前線で戦いながら少女たちは「勝利」を確信していた。『ただ、生きてその勝利を見ることができるかどうかだけが確信がなかった。』『この戦争が終われば、素晴らしい世の中が待っていると思っていた。』でも、その戦争に「勝利」したけれど、待っていたのは「そのあと」苦しみの人生だった。「勝利」して、どんなに素晴らしい国ができたというのか。

ベトナム政府はあの可愛らしい少女の兵士たち、生き残って、手や足を失って心や身体の健康を失った彼女たちが、かつて命をかけた理想をどこまで実現する社会を築いただろう。利用しただけで終わっていないか。

ソ連の村の人々は「男たちの中で暮らした女」とみて『お前がいると妹たちがお嫁に行けない』と言った。戦争勝利の記念日の5月9日、国家は大パレードで「勝利」と「英雄」を讃えるのだけれど、敵をたくさん殺して勲章をもらった「英雄」のはずの彼女たちは『その日が近づくと洗濯物をいっぱい溜め込んで朝からたくさんの洗濯をする』のだ。仕事に忙殺されてその日を過ごすことで苦悩から逃れるという。

日本国憲法の平和主義は、世界に先駆けて、歴史的にも初めて「平和のうちに生存する権利」を憲法に保証したものだと言われている。この憲法は「『敵』は『戦争』なのだ」と教えている。先進国の西洋社会の人たちもまだ、この憲法を持っていない。

ところで、伊藤千代子の映画では、共産党員たちが大量に変節し転向した事実を描いた。女たちは「非転向を貫いた」のに男たちは転向したなどと、50年前には描かなかったろう。なぜ男たちは易々と転向したのか。男たちは日本社会では支配階級だった。社会的の地位にかかわらず男は女を支配した。支配者男の社会にあって、官憲も革命家もお互いに通じるベクトルがあるのだろう。女たちにはきっと虐げられた者の強さがあったのだ。宮本顕治は「非転向を貫いた」ことで仲間の中で高い地位を得たが、男は男だけの社会で生きているのでもともと女は目に入っていないから、希少らしく見えたのかもしれない。

「君はベトナム人民に武器を捨てろというのか」「そうだよ。武器をとらずに戦うのだよ。」

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