フランス人が国葬してパンテオンに埋葬した女性政治家シモーヌ・ヴェーユ

フランス人が国葬したシモーヌ・ヴェーユは、避妊も中絶も許さなかった社会で中絶を合法化することに大きく貢献した。中絶を合法にしたこの法律はヴェイユ法と呼ばれている。

『シモーヌ・ヴェーユ回想録・・20世紀フランス、欧州と運命をともにした女性政治家の半生』シモーヌ・ヴェーユ自伝、石田久仁子訳、バド・ウイメンズ・オフィス、2011年

巻末の付録に、シモーヌ・ヴェーユ演説集がある。その中に1974年11月26日の国民議会における演説が収められている。「保健大臣として、女性として、皆様に中絶に関する法制の抜本的な改正を提案させていただくために登壇いたしました。」の言葉で始まる中絶をめぐる議論に対して全面展開した法案の趣旨説明の演説がある。彼女の述べた要旨をここに書き留めたい。

(ポイントを抜き書き、以下に紹介)

私たちが共に引き受けようとしている責任が大きいことを自覚して、しかし同時に、政府が詳細に検討し討議したこの法案を、私は自信をもって擁護する。なぜならこの法案は「無秩序と不公正の現状に終止符を打ち、今日における最も難しい問題の一つに節度ある人間的な解決をもたらすことを目指すもの」なのだから。

・刑罰法規があるのだから、新しい法律は不要だ。⇨ 現状のままでいいのだ。

・なぜ決着をつけねばならないのか。中絶の厳しい法律は、あっても適用されていないことは誰もが知っている。原則を維持しておいて、例外的に適用するというこれまでのやり方を続ければいい。

・なぜ、犯罪的行為を是認して、それを奨励するような危険を冒すのか。

・なぜ、全ての母親が妊娠した子供を産み育てられる寛容で建設的な家族政策を推進する代わりに、少子化の動きを深刻化させるような危険を冒すのか。

なぜならば、現実が、問題をそのような形では提起されてはいないことを示している。別の方法がないから、このような法案を提出している。もはや行政当局が自らの責務から逃れられない状況にまできている。もはや闇の中絶をやめさせることも、現在の刑法を、適用すれば厳罰に処される全ての女性に、法律を適用することができないことも、もう誰もがよくわかっている。

・なぜ黙視し続けないのか。

なぜならば、現状が悲惨だから。痛ましく、悲劇的でさえある。

現状は悲惨だ。法があからさまに蔑ろにされている。法に触れる行為の数と起訴される数とのギャップが大きすぎるために、もはや厳密な意味での処罰がない時、まさに市民の遵法精神が、従って国家の権威が問われてくる。

現状は悲惨だ。医師は自分の診療所で違法行為を行い、それを公表する。検察は、起訴を決定する前に、法務省に個別のケースに関しての裁定を仰ぐように求められる。社会保障関連機関の窓口は苦境にある女性に中絶に必要な情報を提供する。中絶の目的で国外ツアー、しかもチャーター便によるツアーさえもが組織される。

これが現状であるなら、我々は無秩序、アナーキー状態にいる。その状況はそのままにはしておけない。

・なぜ、彼らに法を守らせないのか?と皆様は言われるか?

しかし、医師や福祉関係者の中に違法行為に加担する人々が一定数存在するのは、それは彼らがそうせざるを得ないと感じているから、時には個人の信念に逆らってでも、見過ごすことのできない現状と向き合っているから。妊娠中絶を決意した女性がいるときに、助言もサポートも拒めば、最悪の条件の下で行われ、しかも生涯傷を負ったままにさせるかもしれない中絶手術の不安と孤独の中に彼女を陥れるのだということを彼らは知っているから。この同じ女性が、お金があり情報が得られるならば、隣国へ出向き、あるいはフランス国内のいくつかの専門医療機関で、何の危険もなしになんの処罰も被ることもなしに中絶できることを、彼らは知っている。

その上、中絶しようとするこうした女性たちは、必ずしも最も不道徳な人間でも最も無自覚な人間でもない。中絶する女性は毎年30万人にものぼる。私たちは日常的にこうした女性たちに接しているが、ほとんどの場合彼女たちの苦境や深刻な事態を知らずにいる。

(調べたところ、当時のフランスの人口は約5400万人なので、仮に女性が3000万人と見ると30万人という数字はほぼ100人に1人、この数の女性が毎年、内緒で中絶していたことになりますから、あなたの隣の人が悩んでいることをあなたが知らないだけという話も説得力があります)

この無秩序、この不公正を、終わらせないといけない。しかし、どう、やり遂げるのか。私は、子供を堕すことが例外にとどまるべきで、出口のない状況に置かれた女性たちの最後の手段にとどまるべきだと確信している。しかしこの例外的性質を失わずに、社会が奨励しているかのように見られずに、どのようにそれを容認するのか。

私はまず、女性ならわかる一つの確信、すなわち喜んで子どもを堕ろす女性などはいないという確信を、共有してほしい、と願う。女性の声を聞けばわかる。

中絶はつねに悲劇的な出来事であり、そうであり続けます。

だからこの法案は、現状を考慮して中絶の可能性を認めてはいるが、それは中絶を抑制するためのもの、できる限り女性にそれを思い止まらせるためのもの。不安な立場に置かれたすべての女性たちの、意識的または無意識の望みに応えることを考えている。現行法は彼女たちを不名誉、恥、孤独に陥れるだけでなく、彼女たちは妊娠を隠さなければならないために、話を聞き、サポートし、守ってくれる人を見つけられないということがあまりに多い。こうした苦境にある女性たちを誰が気遣うというのか。処罰的法律の改正に反対する人々の中に、苦境にある女性たちを助けようとした人が何人いるか。過失だと判断されたとしても、若い独身の母たちに思いやりを示し精神的にサポートした人は、何人いるか。

もちろん、そういう人々はいる。私たちは、彼らの活動を支援する。しかし、妊娠した女性への思いやりや支援があっても、それだけでは必ずしも中絶を思い留まらせるには十分ではない。直面する諸問題が本人の思うほどには深刻に考える必要はなかったと乗り越えることもある。しかし、自殺や、家族関係の破綻や生まれてくる子どもたちを不幸にする以外に解決のないような状況に追い詰められたと感じる女性もある。現実は、この事態は頻繁に起きている。

政府は、この現状に何の対策も講じないという安易な道は避けた。けじめをつけねばならない。政府自らが責任を負い、この問題に現実的、人間的、かつ公正な解決をもたらすことのできる法案を上程し審議に付す。

国の問題

政府は、女性の個人的な問題としてばかり考えたのか。社会、むしろ国、のことや、生まれるはずの子供の父親のことや、子供自身のことを、考えたのか。yes

確かにこれは、国に関わる問題である。国にとって重要なことは、国が若者の国であること、国の人口が順調に増加すること。

この解決法は、出生率をさらに下げることにならないか。

出生率と妊娠率の一定の低下傾向は、1965年以来ヨーロッパのすべての国々で見られるもので、中絶や避妊に関する国内法制とは関係のない現象。これほど一般的な現象に対して、単純な理由を探し求めることは、無謀ではないか。一国のレベルでは出生率の低下を説明することはできない。それは私たちが生きるこの時代を特徴付けている文明のなせる業であり、私たちもよくわからない複雑な規則に従って生じる現象なのだ。諸外国の人口学者らが実施した観察記録からも、中絶の合法化、出生率、そして特に妊娠率の推移の三つの間に相関関係があると断言することはできない。あらゆる点から見て、フランスでは、本法案が採択されても、短期的に出生率の変動はあるかも知れないが、時期が過ぎれば、合法的中絶がそれまでの非合法に取って代わるので、出生率にはほとんど影響ないだろう。しかし我が国の出生率低下は、別個の憂慮すべき現象であることには変わらない。行政当局はそれへの対策をなんとしても講じる義務がある。

父親の問題

本法案の第二の不在者は父親。中絶の決定は女性だけではなく、夫やパートナーも関わるべきではないか。

私も現実には常にそうあるべきだと望んでいる。その報告での修正案も検討された。しかし、この点について法的義務を課すことは不可能と結論した。

胎児の問題

第3の不在者は、女性が体内に宿すこの生命の予兆。厳密に医学的な面から言えば、胚が成長し人間になるが、この胚がそれ自体の中に人間のあらゆる潜在能力を既に持っていることに意義を唱える人はもはやいない。しかし胚はまだ、人間として誕生するまでに多くの危険を乗り越えなければならない成長過程にあるのでしかなく、生命を伝達する鎖の壊れやすいひとつの環であるにすぎない。

世界保健機構の研究によれば、妊娠しても、45%が最初の2週間で自然に流産し、3週間目に入ったばかりの妊娠の4分の1が自然現象のために出産にまで至らないことがわかっている。私たちが頼りにできる唯一確かなことは、女性が自分の胎内で、ある日自分の子供として生まれるだろう何かが生きていることを明確に意識するのは、この生命の最初の兆候を感じた時だという事実。そして、まだそれほどの感情を抱けない生成過程にあるものでしかないものと誕生後の子供との間にあるこのギャップが、嬰児殺しは考えただけでも恐ろしくて退けるのに、中絶なら仕方なく受け入れる女性たちがいることを説明してくれる。

私たちの中にも、親しい人の将来が取り返しのつかないほどに危うくなるかもしれない場合、時には道徳的規範よりもそちらを優先させるべきではないかと思うこともある。この行為がまさに他の殺人行為と同類の犯罪であると認識されていたのであれば、そのようには思わない。本法案の採決に最も強く反対する人々の中には、現実には訴追のないことを受け入れいても、刑事訴追の停止を規定しただけの法案の採択には反対する人はあるだろう。要するに、そういう人々自身が、それが特殊な性質を持つ行為であることを、あるいはいずれにしても、特別の解決法が必要な行為であることを察しているということなのだ。

この第三の不在の問題、これこそが本質的な問題であり、おそらく議論の核心であり、そのために法案の内容の検討に入る前にこの点に言及する必要があった。

法案を構成する三つの目標

1、現実に適用可能な法律であること 2、抑止的な法律であること 3、保護する法律であること

1現実的であることについて:

妊娠中絶が許可されるケースをどう定義するか。乗り越え難い幾つかの矛盾。中絶の諸条件が、強姦、近親姦のケースと定義されたとしても、法制改正の目的は達成されない。なぜなら、こうした動機によるものの率は低い。さらにその鑑定には証拠が必要だが、現実には中絶に間に合う期間内に証拠問題を解決できない。あるいは広く定義するならば、必要条件の有無を判定する医師や委員会が、客観的であるためには厳密さの欠ける基準に基づいて、決定しなければならない。許可は個別の考え方に応じて出され、寛容な委員会を見つけることの最も困難な女性たちがまたしても行き場のない状況に陥る。立法機関は、闇の中絶ををやめさせるために、現行の法律の改正を求められている。闇の中絶は、どんな条件のもとでも中絶してしまおうと決意する女性たちの行為であるので、少しでも漠然とした表現はやめて、現実に向き合い、最終的な決定は女性だけができるとする方が望ましいと、政府としては判断した。

2、抑止的な法律であることについて:女性だけに決定権を委ねる

自らの行為の全責任が自らに重くのしかかる女性は、誰かが代わりに決めてくれたと思える女性よりも、決定を下すまでに多く迷うはずだと主張することに、矛盾はない。政府は女性の責任を明確に示す方法を選んだ。なぜならばその方が、実際には見せかけにすぎないか、すぐにもそうなるような第三者による許可よりも抑止的である。重要なのは、この責任を女性が孤独の中で、あるいは不安の中で行使しないことなのだ。本法案は、女性に中絶を思いとどまらせる手続を制度化することは避けつつも、女性が自ら下そうとする決断の重要さを押しはかる方向へ導くさまざまな相談制度を定める。

抑止と助言の仕事は、まずは医療関係者の仕事。全てのリスクを知らせる、あるいは避妊への関心を持たせる。個別の女性との話し合いで、医師のこれまでの経験や思いやりによって、彼女たちが求める信頼できる配慮の行き届いた対話を成立させようと努力するはずだ。

さらにこの法案では、社会福祉機関による相談制度を定めている。女性、あるいはカップルの話を聞く。彼らの苦境を話させ、それが経済的なものであるならば、経済的援助が受けられるようにサポートする。子供の受け入れに障害となるもの、そう見えるものの実情を自覚させる。この相談を通じて、多くの女性たちは、病院で無料の匿名出産ができ、この制度下で生まれた子供を養子縁組に出すという方法で問題を解決できることも知る。

この相談制度は、これまで苦境にある若い女性の支援を専門に活動してきた諸機関が、今後も支援を続けること、さらにその支援に促されて彼女たちが中絶を思いとどまることを望んでいる。全て一対一の相談であって、話を聞く人々の経験や思いやりの心が彼女たちの意見を変えさせるような支援を考えている。女性と共に避妊問題を考え、避妊手段を用いることの必要性を語り合う新しいチャンスとなろう。出生調節に関するこのような情報は中絶しないで済むための最良の対策であるので、重要であると考え、避妊に関する情報を提供することを、中絶手術をする医療機関に義務付ける。これに違反すれば、医療機関の閉鎖が行政措置としてとられる。

以上二つの話し合いと、中絶を望む女性に義務付けられた一週間の熟慮期間は、結果を十分に考えた上でなければ取れない、できる限り避けるべき重大な決定であることを、女性が自覚できるために、不可欠だと思われた。それを自覚し自分が下した決定をとり止めなかった場合にのみ、中絶は可能になる。

3、女性の保護:中絶手術は女性自身に医学的安全が厳密に保障されることなしに行われるべきではない。

中絶は妊娠の初期でなければ実施できない。10週間を過ぎるとリスクが大きくなるので許可できない。中絶は医師のみがこれを行う。しかし医師も医療補助者も中絶を強制されない。手術の実施は公立・私立の病院において許可される。本法案は中絶の情報の提供を禁じるものではない。禁止されるのは、いかなるやり方であれ、中絶を奨励すること。中絶奨励への断固反対の姿勢を、政府は、中絶が法外な利潤を産むことを容認しないことによって明確にする。診療報酬・及び入院費は物価法制に則り行政決定で設けられた上限を超えてはならない。中絶の奨励を避け、法律の濫用に陥らないために、外国人女性は、中絶手術を受けようとすれば、フランスに居住していることを証明しなければならない。

最後に、中絶の費用は自費負担とする政府決定に批判があるので、この点について説明する。

歯の治療、義務のないワクチン、視力矯正などが社会保障による払い戻しのない中で、中絶の社会保障負担を国民にどう理解させることができるか。社会保障制度の一般原則に従うならば、中絶が治療目的でない場合、社会保障がその負担をする必要はない。重要なのは、中絶が不可欠なときに、女性がお金のないために中絶できないことがないようにすることだ。そのために、最貧困女性向けの医療補助制度が設けられた。

避妊と中絶の違いを明確にしなければならない。女性が子供を欲しくない時には、避妊があらゆる手段を用いて奨励されなければならない。だから、避妊への社会保障による払い戻しが決定された。しかし中絶については、社会は、容認するが、費用の負担も、奨励も、できない。

議員の中には、本法案に票を投じることはできない、いずれにしても中絶の禁止を解いて中絶を闇から救い出すどんな法案にも票を投じられない、と考える方もかなりあることは承知している。そのような方々にも、少なくとも次の2点についてはご理解をいただけたと希望している。

本法案は、中絶問題のあらゆる側面に関して深く掘り下げた誠実な考察の成果であること、この法案の直接的な影響だけでなく国への将来的な影響を評価した上で、政府がこれを議会に上程する責任を負ったことの2点である。

この政府の姿勢を裏付けるものとして、政府は5年の時限立法を提案した。5年後に改めて政府は立場を表明する。

しかし、まだ、躊躇する方に。あまりに多くの女性が苦境に追い詰められていることを知り、彼女たちを助けたいと考えてはいても、それでもなお、法律の効果と結果を恐れている方々に、私は次のように申し上げたい。すなわちモンテスキューも「人間の法の本性は、それが、生起する諸事件に支配され、人間の意志が変化するにつれて、変化することである。それに対して、宗教の本性は、それが決して変わらないことにある。人間の法は善を定め、宗教は最善を定める」と書いているように、本法律は一般的かつ抽象的であるとはいえ、個々の状況、それも多くの場合非常に不安に陥らせる状況ではあるが、そうした個々の状況に適用されるために作られているのであって、本法律によって、中絶は、もはや禁止されないが、中絶の権利が作られるわけではない。

まさにこの考えのもとで10年ほど前から国民議会法律委員会委員長の尽力によって威信あるフランス民法が一新され変貌を遂げた。当時、新しい家族像を公式に認めることは家族を台無しにすることにならないかと恐れる人もいたが、そうはならなかった。我が国は、今では、私たちが生きる社会に、より適した、より公正な、より人間的な民事法を誇ることができる。

本日、私たちが審議する問題は、さらに深刻な、各人の良心をさらに動揺させる問題であることは承知している。このような法案(可能な限り最良の法案であるとは思っているが)に大きな喜びは感じられない。中絶が悲劇ではないにしても、失敗であることに、異議はない。しかし年間30万件も実施される中絶、我が国の女性の身体を傷つけ、我が国の法律を無視して、救いを求める女性たちを侮辱し身体的あるいは心的外傷を与えているこのような中絶に私たちはもはや目をつぶることはできない。

一時的にフランス人を分裂させた幾つもの大論争が、時が経てば、我が国の寛容と節度の伝統の中に位置付けられる新たな社会的コンセンサスの形成に必要な一時期であったと人々の目に映るようになることを、歴史は私たちに教えている。

私は、将来を憂える人々とは違う。

若い世代は、わたしたちとは違う。私たちは自分自身が育てられたのとは違うやり方で彼らを育てた。今の若者たちは勇気があり、私たちや私たちの親の世代と同様に、熱中することも犠牲を払うこともできる。生に対し至高の価値を持ち続けるために、若い世代を信頼しようではありませんか。(パリ、1974年11月26日)