「平和に生きる権利」

2023年4月23日収録:近藤真の「やさしさ発見、けんぽう探検」この日は「平和に生きる権利」について話しました。放送日は5月9日(火)8:00と20:00と23:00//5月10日(水)23:00//5月11日(木)23:00//5月15日(月)23:00です。1時間番組のため、「平和に生きる権利」の放送は45分経過後に始まります。

みなさん、こんにちわ。メディアコスモスから私、近藤真がお送りする「てにておラジオ」の「やさしさ発見!けんぽう探検!」の時間です。私は定年まで岐阜大学で憲法の教員を務めていました。本日の話し相手は、高田洋子さんです。自己紹介を。

TY:岐阜大学社会人大学院で3年間学んで、修士号をいただきました。現在てにておの仲間です。今日の話題はなんですか?

本日は「平和に生きる権利」について話したいです。昨年ウクライナ戦争が始まってから日本の世論はすっかり、武装して守ろうとの方向に舵を切っているようです。しかし、日本は憲法9条の国です。今一度、冷静に、この77年間、何のために9条を大切にしてきたのかを思い出してほしいと思います。

TY:では、9条とはなんだったのか。原点に立ち返って、話をしてください。

日本国憲法の前文と9条が示した「平和に生きる権利」は、全世界の人々の不可欠の基本的人権です。確かに、人類の歴史は戦争の歴史でした。多くの国では今も、「平和に生きる権利」は武力と軍備によってのみ保障されると考えられています。しかし77年間、9条と平和憲法のもとで生きてきた日本人には、おそらく、違った意識が形成されていると思います。私たちは今、第9条の意義を再認識する必要があると思います。

TY:9条と平和憲法が生まれたのは、憲法制定議会でしたね。

はい、1945年8月の敗戦の翌年4月に総選挙があり、そこで選出された議員によって構成された第90帝国議会が新憲法草案を審議しました。1946年11月3日に交付されるまでの約半年間の帝国議会を憲法制定議会と呼んでいます。その議事録に9条に関する次のような質問がありました。1946年8月27日の東大総長の南原繁の質問です。「人間が戦争をするのは歴史の現実である。いやしくも国家たる以上、自国を防衛するための備えは普遍的な軍備である。これを憲法で放棄して無抵抗主義を取るなどとは、国家としての自由と独立を放棄したのと変わらないではないか。」と、吉田内閣を追及します。

TY:吉田内閣はどう答えたのですか?

吉田内閣の国務大臣・幣原喜重郎の答えは、要するに次のようでした。「マッカーサーいわく。日本の9条、戦争放棄の条項を、子どもの夢のような話だと皮肉る者がおるが、近代科学の急速に進歩する破壊的兵器の発明が、次に世界戦争があれば、一挙に人類を木っ端微塵に粉砕するに至ることは、容易に予想できるだろう。これを予想しながら、今後また大戦争が勃発しても今までと同様に人類は生き残ることができるだろうと、虫のいいことを考えている。これこそ、全く子どもの夢のような話ではないか。およそ文明の最大の危機は、このような無責任な楽観から起こるものである。かくのごとく、マッカーサーの言うとおり、第9条は戦争の放棄を宣言し、わが国が世界で最も徹底的な平和運動の先頭に立って指導的地位に立つことを示すものであります。今や文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争が文明を全滅させることになるでありましょう。私もこの信念で憲法改正案の起草に関与してきました。」これが幣原喜重郎の国会答弁です。

TY:そうして成立した平和憲法も、誕生してすぐに、大きな挑戦を受けましたね。

占領軍は、事実上、憲法よりも上の存在でしたから、朝鮮戦争をきっかけに、憲法9条を作ったマッカーサー元帥自身の命令によって、日本の再武装、それも対米従属的再武装が実行されました。これが自衛隊です。しかし、9条は死んだわけではありませんでした。9条が国家の武装を否定した、この平和憲法が、国民の平和に生きる権利を守るために、重要な法的な武器を提供したのです。

TY:平和に生きる権利のための法的な武器ですか?

例えば、1973年9月7日の長沼判決です。自衛隊のミサイル基地建設によって国民の平和に生きる権利が侵害される恐れがあると判決されました。長沼判決が画期的だったのは、これまでは、軍備は「平和に生きる権利」を保障するための不可欠な制度だと考えられてきたのに対して、逆に軍備が、平和に生きる権利を侵害することを示唆したことでした。

TY:逆に軍備が平和に生きる権利を侵害する。今は日本全国でミサイル基地の建設が急ピッチで進められていますが、基地が狙われる。長沼判決の言ったとおりですね。

そうです。確かに外国では、ほとんどが「平和に生きる権利」の「平和」とは「武装平和」を意味しますが、日本では「軍備によらない平和」を意味します。しかし、9条のこの方法は今や大きな挑戦を受けています。

TY:そうですね。ところで、9条のもとで、もし、ウクライナのように外国から侵略されたら、どうなるのでしょうか。

日本が侵略される現実性がどの程度あるかわかりませんが、戦うにしても、戦い方は色々あると思います。もし武力で抵抗すれば、美しい古都も、キエフのようになるのは想像に難くありません。しかし、9条の国の私たちにとっては、かつてヒトラーの侵略を受けたパリや、ソ連の侵略を受けたチェコの場合が、歴史的教訓として検討されるべきでしょう。

TY:ドイツの侵略を受けたフランス国民は、どう戦ったのですか?

第二次世界大戦におけるフランス国民の経験です。それは、非暴力組織抵抗の教訓です。ヒトラーのドイツ軍がフランスに侵入しましたが、フランス国民は武力抵抗は行わず、首都パリを侵略者の手に委ねたのです。それは言うまでもなく、パリを、破壊から守るためでした。けれども注目したいのは、武力の抵抗こそ行わなかったけれども、非暴力の組織抵抗は行われていたという事実です。例えば、ドイツ軍に占領されて、フランス国旗の三色旗の掲揚は禁止されましたが、パリの女子学生は、赤、白、青、のセーターを着て3人並んでパリの大通りを歩いて、抵抗の意思を示しました。そして最後にはドイツ軍を追い出したのですが、その教訓は非暴力的な方法による抵抗の結果、今も古都パリの美しい街並みは残っているということなのです。

TY:ソ連の侵略を受けたチェコの市民はどのように戦ったのですか?

1968年ドブチェク首相の「プラハの春」に対して、ソヴィエト軍が侵入した時のチェコ国民の対応も非暴力による組織抵抗でした。チェコの市民は武力では戦わなかったのです。しかし、もちろん、チェコの国民は、非暴力で戦いました。道路標識を全て張り替えて「モスクワはあっち」と書いたのです。ソ連兵士にはロシア語で「私はロシア語はわかりません」「ダモイ(故郷にお帰りなさい)」とだけ話したそうです。さらに女性は、非暴力を示すためにミニスカートを着て外出しました。そのとき、直ちにチェコ共産党の臨時党大会が開かれましたが、万一に備えて、もし侵入されたら何時間後にどこで党大会を開くかも、決定されていたのです。このように用意周到な対応で美しき古都プラハは守られました。そして20年後にビロード革命の無血革命によってドブチェク元首相もチェコ独立を見ることができました。フィンランドや他の国でも同様の経験があるのです。

TY:侵略されたからと言って、銃をとって戦うばかりが能ではないですね。そして一人の命も失うことなく美しい世界遺産の日本の古都も、全人類のために守り抜きたいですね。時間が来ました。今日の一曲をご紹介ください。

世界中に平和が必要ですね。ジョン・レノンの「イマジン」をお聞きください。

「平和に生きる権利」については、星野安三郎先生から多くを学びました。